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3-十七年間の願い

残響29.4m/s

あるフロアの踊り場に到着した時、俺はぴたりと足を止めた。

「……ここのドアを開けたら、きっと屋上だ」
「え?なんでわかるの?」

きょとんとする萱城を放置して、ドアに手をかける。鍵がかかっていなくて助かった。代わりとでも言いたげにグルグル巻かれている針金は劣化していて、容易く取り外すことができた。

「本当に屋上じゃん。何も書いてないのに、よくわかったな」

萱城がまた妙な感心に浸っていた。

ビルの屋上に出た。簡単に乗り越えられる高さのフェンスで、四方を覆われたスペース。地上よりも強く吹きつける風が、身体の隙間を抜けていく。夕日はすでに沈み始めていて、赤色と紫色の絶妙なグラデーションが空を塗りつぶしていた。

目を閉じる。呼吸をする。

ゆっくりと吐いた空気は、無駄に長い時間を生きた都会よりも、ずっと無色透明に感じた。

俺はここに来るために、今日までを過ごしてきたんだ。

「ここまで迷うことなく一直線か。もはや特技じゃん。すげえな、南は」

萱城が金髪をビル風になびかせながら、つぶやいた。

「特技?」
「そう。絶対的直感って言うの?それだけで大儲けできそうだなあ」

萱城が羨ましそうに俺を眺めた。

「そんな大層なものじゃないよ」

俺はため息をついた。ついにこのビルで一番高いところ、俺がずっと辿り着きたかったところまで、萱城はついて来てしまった。

「音が聞こえるだけなんだ」

仕方が無いから、萱城に教えてやることにした。

「音?」

萱城が聞き返す。

「ここって、ビルの南側だけに雨水管が通ってるだろ。その音で方角がわかるんだ」
「雨水……って、そんな音してたか?雨降ってないのに」

萱城が不思議そうな顔をした。

それもそのはずだ。雨は止んだ後だから、ごうごうと水が流れる音がしていたわけでもない。強いて言えば、ぽつん、ぽつん、と時折雫が管の中を滑るくらいの音だ。萱城に聞き取れていたとも思えない。

「あとは、風の音。行き止まりとか、屋上みたいに開けたスペースに出る通路は、風の音が変わる」
「……え?」

萱城はいよいよ目を丸くした。

もういいんだ、どれだけ気味悪がられても、怖がられても。もう少しで、この世とはおさらばだ。

「この世の中にある音なら、どんなに小さい音でも認識できる」

首にかけていたヘッドフォンを外した。ゆっくり腕を下ろすと同時に、掌の力を緩める。ヘッドフォンが重力に従い滑り落ちる。機械が壊れる、嫌な音が耳の奥に滑り込んだ。

「それから、一度聞いた音は絶対に忘れない」

俺は物心ついてから今まで、雨音、雷鳴、音楽、他人の声、雑音雑踏、機械音……耳にするありとあらゆる音を、一つも逃さず全て覚えていた。

雨水管の内側に残っていた雨の一滴が、ぽたり、と地面に落ちるわずかな音が聞こえた。萱城は未だ何も言わずに、口元を引きつらせている。

十七年間という地獄のような月日の中で蓄積され続けた音たちが、頭の中で行き場を失い、反響する。

人工的に発せられた音には、感情が乗せられている。それは好意と同じ数だけ、悪意に満ちているんだ。

「おい、ガリ勉。誰が学校来て良いっつったよ。また痛い目みたいのか」

これは小学生の時。幼いからこそストレートな暴言と暴力の数々に晒され続けた。言った本人はきっと覚えていないだろうけれど、俺は全部覚えている。

「うわあああああぁぁぁっ」

これは中学校から帰る時。駅のホームで、俺の隣に並んでいたサラリーマンが、頭から線路に落ちていった時の断末魔。

その頃から多発し始めた「突き落とし殺人」だった。それから、ホームに入ってきた電車の劈くようなブレーキの音。嫌な音ほど、耳にこびりついて離れない。

「なあ、南。本気……なわけ、ないよな」

これは三ヶ月前、渋谷の高架下の隙間、暗い小道で。

あの日は巨大な液晶から流れるコマーシャルの音楽、雑踏、笑声や罵声、クラクション、人間が生きていくための色々な音が混じり合っていた。

それらを全て掻き消すように、あいつの声だけは、一等絶望的に響いた。

「マジで?男が好きとか、無いわ。気持ち悪い。お前はずっと俺のこと裏切ってたのかよ」

リピート、リピート、リピート。

願っても縋っても泣き喚いても、音は消えてくれない。

俺は耳を塞いでその場に蹲った。ぎょっとした顔の萱城の口が「どうしたんだ?」と動く。

それにしても、俺は本物の馬鹿だ。自分が普通じゃないことくらい、とうの昔にわかっていたのに、ここに来るまで十七年もの月日を要してしまった。

笑えてくる。なぜこんなにも、生に執着したのかわからない。

息を吸う。呼吸を整える。頭の中で音の暴走が止んだ頃、夢から醒めたみたいに途方もない空々しさと虚しさが胸を支配した。澄んだ空気のせいか、喉の奥が冷たくてかなわなかった。

耳を押さえていた手を、そっと離す。

「南」

名前を呼ばれた。顔を上げる。

萱城は、ぱらぱらと本をめくっていた。何かと思えば国語の教科書だった。俺の学生鞄から引っ張り出したらしい。

「『よだかの星』」
「は?」
「宮沢賢治だよ。南も学校で習ったことあるだろ」

それくらいは俺でもわかる。聞きたいのは今なぜこのタイミングで、ということだ。

「何も見ないで、最初から読んでみろよ」
「何の意味があって……」
「いいから。な?」

俺の意見なんて真っ向からスルーして、はいどうぞ、と萱城が言う。理解できないと思いつつも、萱城の有無を言わせない指示で、渋々口を開いた。


「『……よだかは、実はみにくい鳥です』」

高校の教室。教師に命じられ、学生が一人一節ずつ朗読していたのを思い出す。誰がどこを話していたのかさえ、鮮明に覚えていることに嫌気がさす。

「『ところがよだかは、ほんとうは鷹の兄弟でも親類でもありませんでした』」

唇を噛む。それは、あいつが読んでいた一節だった。

ずっと好きだった。

あいつに関する音なら、何回も何回も頭の中で繰り返した。俺の名前を呼ぶ声。隣で笑う声。小さな寝息。今はそんなことしたくなくても、思いとは裏腹に反芻は止まらない。ふいに、涙がぼろぼろとこぼれた。

「『風を切って……駆けるときなどは、まるで鷹の、よう、に……』」

声が震え、海底に呑まれるみたいにフェードアウトする。萱城が俺の肩を掴んだ。

「うん、わかった。もういいよ」

俺は黙った。萱城は笑う。

「はは……すげえな、本当に全部覚えてんだ。一字一句」
「疑ってたのかよ」
「今、実際に聞くまではな」

俺は白いシャツの袖で目元を拭った。つまらない鎌掛けに乗ってしまった自分を呪う。

「今まで聞いてきた音を全部、か。そりゃ頭もおかしくなるよな」

萱城の声が少しだけ寂しさを帯びた。今更同情なんていらない。萱城が、俺の腕を掴んだ。振り払えなかった。

「だから、死にたいのか?」

 

萱城は穏やかに言った。俺は戸惑いながらも、頷く。

 

「もう……全部終わりにしたいんだ」

 

願うように、言葉を吐いた。

「だから、死にたいのか?」