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羨望症ヒットパレード

聖夜の夜景は、社会人の残業でつくられています。

誰かがそんな夢の無いことを言っていたなと、ナツは思い出していた。

「……俺もその、残業する側の一人なんだけどさ」

雪道に残す足跡が、暖色の外灯に照らされてじんわりと浮かび上がる。都会の夜はずいぶんと明るい。散々ぼやいた後、ナツは地図を挟んでいるバインダーを片手で閉じた。

「ここだ!」

寒空の下、ナツがようやく辿り着いたのは、東京のベッドタウンにある私立病院だった。二階建ての建物の内側は暗く、静まり返っている。

慣れた足取りで裏庭に侵入し、南の端に位置する部屋の窓を、ナツが背伸びをして覗き込んだ。

桟の部分に、右の掌をそっと押し付けるように当てる。

ぱちん。

ナツが左手で指を鳴らすと同時に、乾いた金属音がして鍵が開いた。

「多分、この部屋だと思うんだけどな」

暗闇に目が慣れてからきょろきょろと辺りを見回し、ナツは窓へと足をかけて滑り込んだ。消毒液の匂いが鼻につくその部屋は、病室のようだった。部屋の隅に置かれたベッド。中央が膨らんだ毛布は寝息に合わせるように上下している。

思いのほか順調に事が進んでいて、ナツは胸を撫で下ろす。肩に引っ掛けるようにして携えている鞄に手を突っ込みながら、彼はふと思いとどまった。

「男の子かな、女の子かな……?」

ナツは恐る恐る、ベッドに手を伸ばした。そっと毛布をめくって性別を確認しようと思ったのだ。

いつの間にか、寝息も毛布の動きも止まっていたことに、彼は気がつかなかった。

毛布の隙間から現れた手が、不意を突くようにナツの腕を引き込んだ。

「うおぁっ!?」

声が裏返る。ナツはバランスを崩し、ベッドへともたれかかった。抵抗する暇も無く、ナツの胸と腰の辺りにそれぞれ手が回され、まるで抱きしめるように縫い止められる。

「まっ……じ、で……?」

このまま絞め落とされるのかと身構えたが、ナツの予想に反して、背後から聞こえてきたのはくぐもった甘い声だった。

「ふふ。由実ちゃん、この間、婦長に怒られたばっかだろー……また来たの?」

腰に回された手は、そのままさわさわと太腿あたりまで優しく揉みしだくように動く。

ナツは、ぞわり、と寒気と身の危険を感じた。

「由実って誰だ!?ちょっ、は……な、せ!ばかっ!」

ナツは背後の男を押しのけるようにして、身を捩る。暗くて全体像が見えなくとも、触れていると体格差が解る。身長が160cm弱のナツより、背後の男はずっと身体が大きい。腕の感触からして細身のようではあるが、想像以上に力が強い。

先程まで男が頭からかぶっていた毛布が、ぱさり、と床に落ちた。

「……ん?誰?」

ようやく眠気が覚めたらしい男の声と同時に、手を離される。片足が浮いた状態のナツは突然支えを失い、勢い余って床に尻餅をついた。

ギシッとベッドが軋んで、暗闇の中で男が立ち上がったことが解る。

「患者さんかな?」

尋ねられたナツは反射的に、首を振った。どうせなら誤魔化せば良かったとハッとするが、もう遅い。男の影が、腕を曲げるような形となって動く。どうやら腕時計を見ているようだ。

「夜の23時。宅配便でもなさそうだね」
「ええと、あの……っ」

急にぼんやりとした灯りが、目の前に浮かび上がった。眩しくて思わず目を瞑る。それは男が取り出したスマートフォンのディスプレイのライトだと気づくや否や、ナツはぎょっとして声を上げた。

「つ、通報は!通報だけはやめてくださいっ!」
「キミ、泥棒じゃないの?」

こくこく、とナツは頷く。

「じゃあ何?デリヘル?」
「デリヘルじゃねえわっ!」

パチリ、と部屋の照明が点いた。男が手探りで壁のスイッチを押したらしい。ナツの目に映ったのは、寝癖で所々はねた毛量の多い黒髪、眠たそうな切れ長の目を持つ、整った顔立ちをした長身の男だった。

よれた白衣に身を包む彼は、20代か30代前半くらいの風貌だ。彼は片手でメタルフレームの眼鏡をかけながら、怪訝そうにナツを見下ろす。

上から下まで、じっくり品定めをするような視線の動きは「そんなコスプレをしているのに?」とでも言いたげだったので、ナツはもう一度「デリヘルじゃない」と消え入りそうな声で否定した。

「あ、あんたは誰だ?」
「キミがそれを言うのかい」

噛み付くようなナツの問いかけをいなすように、ふわあと欠伸をして、男は言った。

「……:浅井 馨(あさい かおる)。ここの院長で、小児科医です」
「な、No.072で、通称ナツ。この地区担当のサンタクロース……です」
「え?」
「えっ?」

二人の男は、互いに信じられないという視線をかち合わせて、しばらく押し黙っていた。

浅井医師が「110」とプッシュ途中のスマートフォンをようやく手放したのは、それから十分後。

困り果てたナツが指を鳴らすと、床に置いた袋からふよふよとプレゼントボックスが浮き上がり、空中でビロードのリボンが巻きついていくという芸当を披露してからだった。

「サンタクロース?」
「……うっす」

例の真っ赤な服と帽子を着ているナツが、小さく頭を下げる。帽子の裾からはねる、つんつんした金髪と相俟って、とても派手な風貌だった。

「本当にいるんだね。まだまだ夢のある世の中だ」

感嘆する浅井に、なんとなく褒められた心地になったナツは頬を染める。

「いやあ、俺なんてまだ見習い中の見習いなんで。サンタの中じゃ一番歳下だし」
「ああ。高校生の悪戯かとおもったよ」

ぽんっとシャボン玉が弾けるような音を立て天井から落ちてきたプレゼントを、ナツが丁寧に両手でキャッチする。高校生と言われ、彼はむっとした。

「……でも、サンタってイブの夜に来るんじゃないの?もう25日だけど」

首をかしげる浅井に、ナツはひくりと喉を震わせる。

「そ、それは、俺っ、段取りが悪すぎて、昨日の内に配り終えられなくて……。毎年こんなんだから仲間も呆れて手伝ってくれねえし。赤鼻のトナカイにすら鼻で笑われて置いてかれちゃったから、徒歩だし……!」

この病院でようやく終わりなんだと涙目になった彼が視線を上げた頃には、浅井はかわいそうなものを見るような目つきをしていた。

ナツはいよいよ泣きたくなる。

「それで、ナツくんみたいな落ちこぼれのサンタが、なんでわざわざ俺のところに来てくれたの?」

なんだか鼻につく言い方だなと苛立ちつつも、ナツは呻くように溜息をついた。

「俺が聞きたいよ。ここには入院中の子どもたちがいるって、書類にもちゃんと書いてあんのに……」

ナツはバインダーを取り出して、ぺらぺらとめくってみせる。書類とはまたアナログな手段だなと浅井は苦笑しながら、ナツの肩口からそれを覗き込む。

「確かにうちは、5年前までは入院患者も受け入れてたけど、今は外来だけなんだ。近くに設備の良い提携病院ができたからね」
「5年……前……?」

嫌な予感がしたナツは、書類の右上に目をやった。見切れそうになっている端の部分、スタンプされている更新日付はちょうど5年前。誤って持ち出してしまったのだ。

愕然としているナツを見てこらえきれなくなったのか、浅井はくすくすと笑い始める。

「あはは。とってもいいキャラしてるね、ナツくん」

意地悪そうに、浅井の口元はにっこりと弧を描いていた。

「ええと……浅井さん、ですっけ。お騒がせしてすんません、お邪魔しましたー」

情けなさや恥ずかしさ、色々な感情が一気に押し寄せたナツは、肩を落として踵を返す。渡されることのないプレゼントが詰め込まれた袋は、ずっしりと重い。

これから帰って先輩たちにどやされるのかと思うと気が重かったが、そもそも彼が帰ることは叶わなかった。ベッドに腰掛けた浅井に、赤いコートの裾をきゅっと掴まれていたからだ。

「あの……ちょっと、なんなんすか?」
「俺にはプレゼント無いの?」

サンタでしょ?と言う彼の眼鏡の奥に映る瞳は、子どものように輝いている。

「あんたは大人だろっ!?」
「徹夜明けで、ようやく眠れたところをキミに邪魔されたんだから、お詫びの気持ちくらいもらえて当然じゃない?」
「んなこと言っても、俺は子どものおもちゃしか持ってねえよ!」
「準備が悪いなあ。大人のおもちゃくらい持ってきてないの?」
「ご、誤解されるようなこと言うなっ、バカァっ!」

ええ、と駄々をこねるように浅井は口を尖らせた。

「それなら、すっかり冷えちゃったし、身体つかって俺のこと温めてよ。ナツくんは美人だから十分プレゼントになるし」
「……通報すんぞ、変態」
「通報されて困るのはナツくんだと思うけど」
「あ、そうだった……」

両手で顔を覆って、ナツは言葉を失う。一方の浅井はしゅんとしたように眉根を寄せて、視線を床へと落とした。

「俺はね、仕事にのめり込みすぎて、妻と子どもに逃げられちゃってさ。サンタって聞くとどうしても子どもの顔が思い浮かんで、寂しくなるんだ」
「あ……」

若くして院長を務める彼には、それなりの苦労があったようだ。

書類をミスしたせいで傷つけてしまったと気づいたナツは、おろおろしながら、自身の金髪を人差し指で掻く。

「お、大人のおもちゃは無いけど……俺にできること、なら……」
「本当に?やった!」

じゃあ早速とでも言いたげに、浅井のベッドへと誘われた。押し倒されると思いきや、そっと頭の後ろと腰を抱え込まれ、お姫様でも寝かせるような浅井の仕草に、ナツは不覚にも胸が鳴ってしまう。流されてはいけない、と唇を噛んだ。

「……俺、男なんだけど」
「知ってるよ」

冷えてしまった浅井の手が、体温を求めるようにナツの頬に当てられた。びくりとナツの身体がはねる。そのまま細い首まで滑っていく指先。

やけに色っぽい手つきと浅井の表情に酔わされそうになったナツは、気を散らすために慌ててそっぽを向いた。

さっきまでは暗くて気づかなかったが、サイドテーブルには浅井に贈られたらしいクリスマスプレゼントの箱や袋が置かれている。添えられたカードの中には、ベタに口紅付きのものだってあった。対照的に、小さな子どもが描いたらしいクリスマスカードの数枚には「あさいせんせ おおきくなったらけっこんして」とクレヨンで綴られている。

そんなものが、いくつも積み重なっていた。

ナツは、服を脱がせようとする浅井の腕を思い切り掴んだ。

「お前、独身だろ」
「バレた?」

浅井は悪びれる様子すら一片もなく、笑みを深くした。

「ぬけぬけと嘘ついてんじゃねえ、この野郎っ!」

ベッドから抜け出そうともがくが、しっかりとナツに体重をかけるようにして覆い被さっている浅井を押しのけるのは至難の技だ。

からかうようにべろり、と首筋を舐められて、ナツは喘ぎそうになる口を自らの手で塞ぐ。指の間から抗議の声がもごもごと漏れて、その必死さを見た浅井は、楽しげに喉を鳴らした。

「お前モテんのに、なんでこんな夜に病院で寝てんだよっ……!」

今夜この場所に浅井さえいなければ、とナツは恨めしそうに睨む。

「急患があるかもしれないからね。詰めてたんだ」
「は?クリスマスなのに?」
「子どもにとって特別な夜に、病気なんかで辛い思いをして、泣かせるわけにはいかないだろ」

浅井は至極当然のようにあっさりと返した。

「この仕事は俺の使命だと思ってるけど、病院は親父から継いだだけで、俺はまだ何もやり遂げてないからね。実力と経験が足りない分、できることは何でもやらないと」
「……」
「あはは。ごめんね。すっごい恥ずかしいこと言っちゃったから、今のは忘れて」

浅井はキスをしようとして、ナツの前髪を右手でかきあげる。顕になった強気な両目には涙が滲んでいて、浅井は動きを止めて驚いた。

「なんだよお前……ずりいよ。俺だってそうやって、ずっと、思ってたのに……だけど使命とか、笑われたりしたら嫌で……でもそんな風に迷ってる自分が一番嫌いで……」

満杯になったコップから、水が溢れるようだった。なんでそんなにかっこよく言えちゃうんだよ、という言葉がトリガーになる。

ぐすぐすと泣き始めたナツが吐き出す思いや憧れを悟って、浅井は弱ったように笑うと、ぽんぽんと彼の頭を撫でた。

「こんな夜に一人で寂しかったのは本当だよ。だから、ね、サンタなら……俺にプレゼントちょうだい。誰よりも喜んであげられる自信があるよ」

浅井の指がナツの目尻の雫を拭うように滑る。ナツの気が緩んだその一瞬で、後頭部を引き寄せて唇を奪った。大人のやり方だ、ずるい、言いたい文句は全て喉の奥に飲み込む他無かった。

「ん……ふっ……!」

工程される気持ちよさに、ナツは半ば全てを放り投げるような気持ちで目を閉じる。

「力抜いて。嫌なこと全部、忘れちゃっても誰も文句言わないよ。もう25日も終わる」

浅井は、彼の全てを受け止めてくれた。

「来年もこの辺りでプレゼント配るの?」
「担当地区の移動で転勤にならなきゃな。……散々飛ばされまくってっから、もう無いと思うけど」

思う存分好き勝手されたナツは、枯れかかった情けない声で嫌味を言う。

「ふうん。サンタってどこに住んでるの?」
「俺は靜岡県」
「フィンランドとかじゃないんだ……がっかりだ」
「離島じゃないだけマシだってーの!ようやくこっちの地域に慣れたのに、いつ転勤になるかビビってんだからな!」
「えっと、サラリーマンなのかな?」

ナツがぽかぽかと浅井の胸あたりを殴ると「いたい、いたい」と思ってもなさそうな声が弾んだ。

とりあえず寒いからもうちょっとこっちおいでよ、と浅井に引き寄せられる。

「来年もナツくんに会いたいな。来てくれる?」

だからそれまで頑張ってよ、という耳を擽る無邪気な言葉に、ナツは舌を出しながらあえて返事をしなかった。

きっと答えは、もう決まっているのだ。